沿革

1916年(大正5年) 10月
1926年(昭和元年)
1938年( 〃 13年)
1948年( 〃 23年)
1957年( 〃 32年)
1962年( 〃 37年)
1970年( 〃 45年)
1971年( 〃 46年)
1975年( 〃 50年)
1978年( 〃 53年)
1982年( 〃 57年)
1983年( 〃 58年)
1985年( 〃 60年)
1993年(平成5年)
2001年( 〃 13年)
2002年( 〃 14年)
2004年( 〃 16年)
2005年( 〃 17年)
2007年( 〃 19年)
2013年( 〃 25年)
大阪市南区瓦屋町において、村田鼎により印刷紙器業として創業
大阪市大淀区大仁本町に移転
事業規模拡大にともなって現所在地に移転
法人組織に改組と同時に現在の社名に改称、創業者村田鼎が初代社長に就任
高槻市に傍系会社として株式会社興南産業を分離設立し、印刷紙器の製造販売を営む
村田開作が社長に就任
本社工場の立体化を図り、第二期近代化に着手
伊勢工場を建設
滋賀工場を開設
本社工場近代化第二期工事完了
本社社屋完成
横山春樹が社長に就任
ブルナーシステム導入、カラー印刷の標準化を推進
村田治彦が社長に就任
本社新工場増築
ISO14001認証取得
東京営業所開設
滋賀工場を移転、物流センターに改称
プライバシーマーク認定取得
ISO9001認証取得

創業ヒストリー

 第一次世界大戦開戦から2年余りの大正5年(1916年)10月。場所は大阪市南区。不況、活況入り交じる大阪の街に、決意も新たに空を見上げる青年が一人。名は村田 鼎。創業の夢に想いを馳せた青年の目に映ったものは、どこまでも高く
青い空と、その遥か先の“未来”であった。
 彼の故郷である広島県三次市は中国地方のほぼ中央に位置する盆地で、古墳や貴重な文化財が多く残ることでもよく知られた地域である。古来より中国地方での歴史舞台の重要な交流点で、後に彼が印刷紙器業を始めたのも、この“交流点”としての風土による所が大きかったようである。「伝えたい、知らせたい」、またそれらによって社会と「つながりたい」という思いが膨らんでいったのも、ごく自然の流れだった。
 では彼は“つながる”ために何を始めたのか。彼が選んだのは「紙箱」であった。これは厚紙で組んだ生地箱にコマ紙と呼ばれる貼り紙を貼ったもので、堅牢で美しいことが特徴の箱である。ある者はその箱に大切な商品を納め製品として、またある者は思い入れの深い品を詰めて贈り物としてなど、当時の暮らしに密着した貴重なコミュニケーションツールだった。邨田印刷の「消費者の目線で」「お客様第一で」という考え方はこの頃既に完成されていたのである。

 その後「紙箱」の枠に納まらない彼は印刷にも業容を拡げ、国内はもとより海外にも目を向け、東南アジア及び中国方面へ印刷物の輸出を行うなど積極的な経営を進める。第二次世界大戦における「大阪大空襲」。幸いにも戦災は軽微に終り類焼を免れることができたのは「天運」とも言うべきであった。
 そして戦後の混乱期を切り抜けることができたのはひとえに、数々の人々との“出逢い”と「箱」を通した大切な“つながり”だった。
 時は移って21世紀。創業時に村田 鼎が大切にした「伝えたい・知らせたい」という想い、それによる社会との“つながり”は、現在ではネットワークの構築、また「印刷・パッケージ」を含む様々なコンテンツ制作のデジタル化など、大きく様変わりした。あの日、彼が見つめた空の先に見えていたものは現在のコミュニケーションの姿であったのか、定かでない。但し、彼の思い描いた“つながり”だけは、いつの時代も変わらない。

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